別寒辺牛と書いて「べかんべうし」と言います。その別寒辺牛川の河口や別寒辺牛湿原および厚岸湖周辺の野鳥を紹介しています。その2
別寒辺牛川河口の野鳥たち
タンチョウ
真冬、別寒辺牛湿原は氷に閉ざされていてタンチョウは住むことができません。
春になって川の氷が融け始めると、鶴居や阿寒からやってきて巣作りを始めます。
4月の初め、タンチョウは、直径1m以上になる巣を、ヨシなどを集めて数日のうちに作ってしまいます。
ヒナはしばらく飛べないので、川を渡るときは泳いで渡ります。父さん母さんが守っています。
約1カ月間夫婦交代で卵を暖めます。卵は通常2個生みますが、育つのは1羽が多いんですが、いまでも理由が分かりません?。
約3カ月で親に近い背丈になり、その後1カ月で飛行が出来るまでになります。
飛行の練習をくり返し上手に飛べるようになる頃、川は再び凍り始めます。と同時に別寒辺牛を離れる時期でもあります。
親子のなわばりの中に線路や道路があるので、事故の起こらぬよう私たち人間もじゅうぶん配慮しなければなりません。
タンチョウのヒナは、キツネや他の肉食動物にいつも狙われています。
時には、ヒグマと遭遇することもあります。
タンチョウも少し緊張していますが、ご安心ください。
普通クマはタンチョウを食べることはありません。
タンチョウは、ヨシの生い茂る湿原内の細かな水路も餌場にしているので、この茂みの中に入ってしまうと、なかなかその姿を見ることが出来ません。
オオハクチョウ
そのオオハクチョウの主食はアマモ。
水中に生えているニラのような植物です。
厚岸湖には、毎年10月中旬頃になると、シベリアの方から冬の使者オオハクチョウがやってきます。
そして12月初旬には約5,000~6,000羽のオオハクチョウで、別寒辺牛川河口は埋め尽くされてしまいます。
1月になると日本各地に南下してしまい、厚岸湖で越冬するものは約1,000~3,000羽。
3月中旬頃になると、今度はシベリアへ戻るオオハクチョウが、南から来ますので一時的に増えますが、その後の4月下旬には完全に飛び去ってしまいます。
オオワシ・オジロワシ
オオワシは、オオハクチョウと同じで10月中旬から下旬頃に、ロシア東部からやってきます。
オジロワシより一回り大きく、肩が白いことと、黄色の大きなくちばしが特徴です。
また、オジロワシと同様尾羽は白いのですが、その尾羽はオジロワシより大きめです。
オオワシ・オジロワシは、自らカモを捕まえて食べたり、弱ったオオハクチョウの幼鳥を捕まえて食べていることもよくあります。
そのときには、周りにいた他のオオワシやオジロワシもやってきて、しまいには餌の捕り合いになります。
オジロワシは、少数ですが観察館周辺でも一年中見られます。
大きな魚を捕まえたりエゾシカの死肉を食べています。
オジロワシは、尾羽が白いことからこの名が付いていますが、成鳥は頭部もかなり白くなります。
厚岸湖が凍り始めると、氷下待網漁(チップ漁)が始まり、そのおこぼれを狙いに毎年100~300羽ものオオワシ達がやってきます。
そのうち約1~2割程度がオジロワシです。
厚岸水鳥観察館と野外観察カメラ
厚岸水鳥観察館は、1993年にラムサール登録湿地に指定された厚岸湖・別寒辺牛湿原において、水鳥をはじめとする動植物と湿地の保全や湿原の賢明な利用についての理解を深めてもらう活動を行ったり、調査研究とモニタリングなどを行う拠点施設として建設されました。
一階には展示室、レクチャールームなどがあり、観察カメラがとらえた湿原の映像を大画面で見られるほか、湿原の全容について、写真や解説パネル、立体模型などで学習することができます。
また湿原の最新情報の提供や、別寒辺牛川で川下りするカヌーのルールやマナーについての指導も行っています。
二階は観察コーナーになっていて、別寒辺牛川河口付近の雄大な湿原の景観を間近に見ることができます。
また、湿原で営巣するタンチョウや多くの渡り鳥の姿を観察することができます。
建物から約0.8km離れた山の上(海抜約50m)に遠隔操作の可能なリモコンカメラを設置し、別寒辺牛川河口から厚岸湖を見渡せるようにしています。
このカメラで、タンチョウの抱卵から子育ての様子、アオサギ、カモ、オオハクチョウ、オジロワシ、オオワシなどの珍しい行動を観察することができます。
カメラは最大倍率66倍のズームレンズを使用しています。この映像は光ケーブルで水鳥観察館に送信され大型プラズマビジョンに映し出されます。
別寒辺牛(ベカンベウシ)語源を調査!?
アイヌ語で「ベカンベ」は、水草である菱(ヒシ)の実を表現しています。そして「ウシ」は、何々がたくさんあるところという意味だそうです。
あわせると、別寒辺牛とは「菱(ヒシ)の実のたくさんあるところ」と解釈になるのですが、残念ながら現在は菱(ヒシ)の実を見ることは出来ません。そして昔のアイヌの記録でも、厚岸にたくさんの菱(ヒシ)の実があったという話は、言い伝えられていません。
もう一つの説は、菱(ヒシ)を取ろうと思いここに来たが、菱(ヒシ)は絶えて無くなっていたため、徒らに水上を行ったことをもって名付けられたと言う説もありました。
別の意味で、「水上交通の要所」という解釈もありましたが、この河川の名前の由来は、厚岸の地名のなぞの一つなんです。
本当の意味でアイヌ語を訳すのは難しいんです。アイヌ語も地方によって多少ちがうところがあると聞いています。