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山本五十六の家系図・子供家族は何人いたのか!そして最期が謎?

この記事は約11分で読めます。

連合艦隊司令長官「山本五十六」の家系図や子供およびその子孫がいつごろまで存在していたか?また謎につつまれた最期を解説いたします。

そして新たに山本五十六の人物を紹介します。

 

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山本五十六の家系図で源氏の末裔であることが判明!

 

山本五十六の父親

 

山本五十六の父親の名前は高野貞吉さんといいます。
山本五十六は、山本家に養子に出て、高野五十六という名前を改めたのでした。

山本五十六の父親は武士で、旧長岡藩士で士族でした。

山本五十六が生まれたときに父親の年齢が56歳だった、ということに 由来しています。

 

山本五十六の母親

 

山本五十六の母親は 名前を高野峯子さん、といいます。
母親は45歳だったそうで、両親ともかなり年齢差があったようです。

 

山本五十六の兄弟姉妹

 

また、山本五十六の兄弟ですが、5人の兄と、1人の姉がいました。

 

兄の名前は

 

長男 高野譲(高野力)さん。

 

次男 高野登さん。

 

三男 高野大三さん。

 

四男 高野留吉さん。

 

五男 高野季八さんといいます。

 

姉の名前は

 

高野加寿さんといいます。

 

山本五十六の養父について

 

山本五十六の養父は源氏の末裔の家系で、山本五十六は、山本家に養子に出たわけですが、山本五十六の養父となる人物について、調べます。

山本五十六の養父は山本義路という、やはり新潟長岡藩の武士でした。

 

山本義路は、家老であり、武士としての家格は、かなり高かったようです。

山本家は源氏の末裔であり、脈々と受け継がれた武士の家系です。

 

山本五十六の妻の名前は?

 

山本五十六の妻はどんな方か、といったことを見ていきましょう。

山本五十六の妻の名前は、山本レイといいます。山本礼子とも名乗りました。

 

妻、山本礼子さんは、福島県の三橋康守氏の三女です。

山本五十六の親戚の家系図は、海軍軍人が多いようです。

妻の妹も、海軍大佐だった、斎藤正久氏と結婚しています。

 

そして、 山本五十六の父親の妹が、やはり海軍少将の野村貞氏と、結婚しているので、そう考えると、山本五十六の家系図には海軍の高級将校が、たくさんいるようです。

 

山本五十六の子供は何人?

 

そしてここからは山本五十六の子供は何人か、子孫はどんな方なのか といったことをしらべます。

 

山本五十六の 子供は4人です。

子供たちの構成は 2男2女で、 長男・長女・次女・次男 という順番で生まれてきています。

 

 

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山本五十六の子孫と家系図

 

それでは山本五十六の子供たちについて家系図で確認してみましょう。

 

 

山本五十六 (1884-1943)

 

新潟県士族・高野貞吉氏六男、山本タマシ氏養子海軍兵学校、海軍大学校各卒元帥海軍大将海軍次官、連合艦隊司令長官。

 

 

妻・レイ(礼子)さん

 

明治29年、福島、三橋康守氏三女

 

 

長男・義正さん

大正11年 東京帝大農学部、同大学院各卒

 

 

長女・澄子さん

 

大正14年 山脇高女出身

 

 

二女・正子さん

 

昭和4年 山脇高女出身

 

 

二男・忠夫さん

 

昭和7年 養母タマシさん、 慶応元年 東京、佐藤庄之助氏と結婚

 

 

山本五十六の子孫

 

山本五十六の子孫としては、長男の、山本義正さんが、良く知られています。

山本五十六の息子、山本義正さんは父親と同じく、海軍兵学校を目指していたのですが、健康上の理由から、成蹊高校理科に進みました。

 

そして東京帝国大学農学部に進学し、東大大学院を経て、製紙会社の会社員として、勤務されました。

というわけで今回は 山本五十六の家族や妻、子供や子孫、家系図に関する話題でした。

 

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真珠湾攻撃を成功させた山本五十六最期が謎なんです!

 

飛行機に乗っていたところを撃墜されて、そのまま亡くなられました。

しかし、外傷があったとか、なかったとか、目撃者の証言がコロコロ変わって謎が多いんです?

山本五十六について、分かりやすく、カンタンに解説いたします。

 

 

山本五十六が亡くなられた原因は!謎につつまれた最期とは?

 

太平洋戦争において、前人未到の奇襲作戦「真珠湾攻撃」を成功させた、日本の連合艦隊司令長官「山本五十六(やまもといそろく)」

 

彼の最期は、謎につつまれていると言われています。

1943年4月18日、山本五十六は「ブーゲンビル島」「ショートランド島」の最前線基地にいる兵士たちを慰労するため、飛行機に乗ってラバウルから飛び立ちました。

 

しかし、これらの予定は通信機を傍受していたアメリカ軍に筒抜けとなります。

4月18日7時50分、山本五十六長官が乗っていた飛行機が被弾し、ジャングルに墜落。

この時山本五十六は亡くなったと考えられます。

享年59歳。

 

翌日の4月19日、山本五十六の遺体は捜索隊によって発見されます。

第一発見者によると、山本五十六の遺体は墜落機の座席に座ったまま、刀を持って凛としていたとのこと。

 

頭部や身体に目立った傷はなかったそうです。

ところが、亡くなられた原因を調べたら、「戦闘機の機銃が頭を撃ち抜き、背中を貫通」していたのだとか。

 

他には「死因は全身打撲と内臓破裂」。

 

さらに、山本五十六の御遺体を清めたものの証言によると、頭部に外傷はなかったとのことも言われていました。

 

そして山本長官の遺体を捜索した吉田少尉によると、直ぐに亡くなられたのではないと判断できたのだとか。

 

とにかく亡くなられた原因や目撃情報がコロコロ変わっており、何が真実なのかはっきりしていないのです。

また、べつの説によれば、飛行機が墜落した時点で、山本長官は生きていた。敵の捕虜となることを恐れて、ピストルで自決したのだとか。

・・・・・?

 

話を整理してみましょう。

これまでに、山本五十六司令長官がの亡くなられた原因については、「3つの説」が浮上しています。

 

1, アメリカ軍の機銃をうけて亡くなった

 

2, 飛行機が墜落したときの衝撃で、「全身打撲」「内蔵破裂」により亡くなられた。

 

3, 捕虜となることを恐れ、ピストルで自決した

この3つのどれかなんですが・・・?

ただ、現実的に考えて、撃墜された飛行機の中で、生存している可能性は極めて低いのではないでしょうか。

 

全身打撲・被弾・・・どちらにしても、墜落した時点で、山本長官はな亡くなったと考えるのが自然でしょう。

 

つまり「自決」の可能性は低いということ。
おそらくですが、「被弾」して亡くなったのではなく、墜落の衝撃で全身打撲または内臓をやられて亡くなったのではないでしょうか。

 

もしも機銃で亡くなったなら、傷が激しく、遺体を見た人間の証言が、これほどまでにまちまちになるとは思えません。

 

「暗殺された」なんて説もあるようですが、可能性は低いと思います。
もしも、撃墜されてなお軍刀をもって凛として亡くなったのなら、それは凄まじい気がしますね。

 

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山本五十六の「評価」とは!名将か?それとも愚将か?

 

山本五十六・・・・彼の評価は両極端です。

一方では「真珠湾攻撃という偉業をなしとげた名将」と評価され、また一方では「日本軍を敗戦に導いた愚将」と酷評されています。

 

いったいどちらが真実なのでしょうか?

私の意見を述べさせて貰いますと、残念ながら「名将」とは言い難いのではないかと思います。

理由はカンタンです。「日本を勝利に導けなかったから

例えば、日露戦争の英雄「東郷平八郎」は、間違いなく名将です。なにせ「バルチック艦隊」に完勝し、日露戦争を勝利に導いたのですから。

 

ところが、山本五十六は「真珠湾攻撃」を成功させはしたものの、「ミッドウェー海戦」という絶対に勝てる戦いで、アメリカに大逆転負けを喫しています。

さらに、日本は敗戦してしまったのです。

結果を出せなかったということで、残念ながら山本五十六は「名将ではない」としか評価できない気がします。

 

憲政史家の「倉山満」さんや、作家「百田尚樹」さんも山本五十六を酷評していますが・・・・。

日本人は、「敗軍の将」に憐れみをもって接する傾向があります。
源義経や明智光秀・真田幸村を名将とたたえ、「生存説」まで出てくるほどです。

 

山本五十六に対しても、そういう日本人特有の憐れみがあるのかも知れません。
情においては忍びないものがありますが、山本五十六を名将と呼ぶことは、残念ながらできないと思います。

 

真珠湾攻撃さえしなかったら、アメリカと日本は戦争などする必要もなかったはずなのです。

真珠湾よりも、ドイツとともに「ソビエト連邦」を挟み撃ちにすれば、スターリンをカンタンに倒せたのではないかと思います。

 

もともと山本五十六が反対していた「三国同盟」なんて結ぶべきではなかったわけですが、ドイツと組んでしまった以上ソ連を攻めるべきだった気がします。

尚、これは私の持論です。あしからず!!!!

 
 

12月10日 追伸

 

山本五十六と言う人物と真珠湾攻撃

 

山本五十六を知っていますか

 

この質問に「はい」と答えられる人がどれだけいるでしょうか?
職場で周りの人に聞いても、海軍の軍人とか真珠湾攻撃を実行した人ということ以上に知っている人はあまりいませんでした。

ちょうど80年前の12月8日、太平洋戦争が始まるきっかけとなった真珠湾攻撃を考えだしたのが、当時海軍大将だった山本五十六なんです。

 

真珠湾攻撃は日本側が勝利したため、国内では英雄ともてはやされたんです。

しかし、戦前にアメリカに滞在し見聞を広めた経験から、「アメリカとは戦争すべきではない」と最後まで反対した人物でもあったんです。

 

山本五十六は太平洋戦争が始まる前に世界の軍縮会議で交渉

 

どうして日本は戦争を始めてしまったのか。そこに海軍はどのように関わったのか。そして、山本五十六とは何者だったのか。

 

とっかかりとなったのは、今回新たに明らかになった海軍の最高機密文書でした。

海軍内のごく限られた人間だけが閲覧を許される「極秘」の印が押された文書の数々。

赤い装丁が施された資料の分量は57冊分、なんと1万ページ以上になります。

 

80年余りに渡り、その存在すら公にされることなく眠っていました。

発掘したのは、これまで何度も番組でお世話になってきた近現代軍事史の権威、田中宏巳さん(防衛大学校名誉教授)です。

 

ある海軍幹部の遺族の元で保管されていたのを譲り受けたといいます。

長年、日本軍の資料の調査・研究をしてきた田中さんにとっても例を見ない大発見。

その呼びかけで、私たちは共同で調査を行うことになったのです。

その結果明らかになったのは、太平洋戦争が始まる7年前に、山本五十六が携わったある外交交渉の舞台裏でした。

 

当時、世界では第一次世界大戦の反省から、各国が保有する軍艦の数を制限する条約を締結。

ところが日本は、アメリカやイギリスより持てる軍艦の数が少なかったために、「国家の威信に関わる」として、「条約破棄も辞さない」強気の姿勢を示していました。

 

そうしたなかで、1934(昭和9)年、ロンドンで行われたのが軍縮会議の予備交渉。

その海軍代表を命じられたのが、世界に名前が知られる前の山本五十六だったのです。

今回見つかった資料には、山本五十六がどんな言葉で交渉を進めたのか、つぶさに記されていました。
一言一句が明らかになるのは初めてのことです。

 

意外なことに、山本がアメリカやイギリスに対して、あわよくば妥協案を出して歩み寄ろうとしていたことがわかってきました。

山本は日本海軍の代表でありながら、いったいなぜ、その方針とは異なる行動をとろうとしていたのでしょうか

生前、自らの思いをほとんど明らかにしなかったとされる山本。どんな思いで交渉に臨んでいたのでしょうか。

 

公文書だけでは明らかにならないその事実を知るため、私たちは、山本五十六の遺族や関係者への取材を重ねました。

その結果、私たちは、その一端をうかがい知る、貴重な資料にたどり着くことができました。所有していたのは、山本五十六の孫にあたる源太郎さんです。

 

これまで、テレビメディアの取材には応じたことはなく、私たちが最初にお会いできたのも、「山本五十六の取材を始めるにあたって、ご挨拶だけでもさせてほしい」という願いを聞き入れてくださったからでした。

そして、その後もたびたび連絡を取らせていただくうち、「何かの役に立てば」と自宅に眠る山本五十六の遺品を探し出してくれたのです。

 

「備忘録」には、数字がびっしり書き殴られていました。

アメリカやイギリスと交渉するにあたって、どこまでなら妥協できるのか、各国が持つ軍艦の数などを計算したものだと思われました。

 

軍人といえば豪放磊落(ごうほうらいらく)なイメージもありますが、山本五十六は、緻密に計算式を操り、合理的に交渉していくという面も持ち合わせていたのです。

「備忘録」のなかで私たちが最も注目したのは、“心構”と題されたメモ書き。
山本五十六が軍縮交渉に臨むにあたって、心に決めた7つのことが列挙されていました。

 

「日本の根本主張は曲げない」というあくまで日本の主張を重視する姿勢。
と、同時に「できる限り協調する」として、英米と協調することの大切さも記していました。

そして、“心構”の最後に書かれていたのは「自分の責任感」という言葉でした。

 

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国家の命運、そして国民の命を背負う責任感

 

交渉の進め方次第では、日本という国の運命が、大きく変わってしまうと考えていたのではないかと感じさせる言葉でした。

 

組織の一員としての任務を背負いながら、心に抱える自分自身の信念を密かに記した“心構”。

遺族はそこに伝わる思いを感じ取り、丁寧に装丁し、長年手元に置き続けてきたといいます。

研究者たちもはじめて触れる、山本五十六の等身大の心情でした。

しかし、山本五十六の思いとは裏腹に、軍縮交渉は、最後まで日本と英米の溝が埋まることはなく決裂。

日本は2年後、正式に軍縮体制から脱退し、国際的孤立をさらに深めていくことになります。

山本五十六は偉大な人物だったんです。

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